人間福祉学科 2008年度卒 横關昌弘さんインタビュー

卒業生インタビューとして、今回は2008年度に人間学科卒業の横關さんのインタビュー記事をお伝えいたします。

インタビューの前半では横關さんに、目白大学入学のきっかけからお伺いしていきます。

人間福祉学科2期生のジェネラリストさんインタビュー

鈴鹿のスタートから福祉の道へ

横關昌弘さんご本人

インタビュアー(以下イ):今回は卒業生でもあり目白大学同窓会支部の人間福祉学科支部「人間福祉学科同窓会」の役員である横關さんにインタビューをさせて頂きます。どうぞ、よろしくお願いいたします。

横關昌弘さん(以下横關さん):はい、どうぞ、よろしくお願いいたします。

イ:早速なのですが、横關さんの目白大学の入学のきっかけからお聞きしたいのですが。

横關さん:はい、分かりました。中学生の時に児童キャンプに参加していて、そのときに担当の先生に高校生になったらインターンとして、スタッフ側としてお手伝いをして欲しいとお願いされました。高校生になり参加したときに数あるクラスの中で支援が必要な子たちのクラスに配属になりました。登山だったり、炊事だったりをしたときに、「やりたくない」「なんでこんなところに連れて来たんだ」という子がおりました。飴と鞭では無いのですが、「頑張ろう、頑張ろう、もうちょっとだよ」と声を掛けながら山を一緒に登っていきました。最後に山頂に着いたときの達成感が分かる顔と、下山後の顔が印象的だったんですね。その子のバックヤード、こういう障がいを持っているということは聞いてはいたのですが、今回達成感はあったんだろうけど、よりもう少し専門的にお声掛けや関わりが出来たら、もう少し良い気持ちで達成感持って帰れるのかなと思いました。それで子どもたちの支援のことを考えました。ただ、最初はよく分からなかったので、心理学を意識しました。その当時、精神心理学がトレンドになったり、心理学科も増えていたりしたので、それで大学を探してました。それと、私自身工業高校だったのですが、履歴を見ると3年前ぐらい卒業した人に目白大学に行った方がいたので、受験しました。高校としても履歴がある高校に進学した方が良いのかなとも思っていました。

そのときに、心理カウンセリング学科の実績が10年ぐらいあったので、最初はそこに進もうかなと考えておりました。今は公認心理士という形で国家資格化されたんですが、当時民間資格で大学院までいかないと臨床心理士が取れない、その後も月・水・金は学校に行き、あとは病院というダブルワーカーの形など、勉強したからといって、専門性を活かす仕事が出来ないよという話も伺いまして、たまたま隣に人間福祉学科というものが出来て、そちらは社会福祉士という資格が取れる学科で、福祉というとイメージが付きやすい仕事じゃないですか?もし、そこで勉強した結果、違う分野にいったとしても資格を取れる学科なら充溢した学校生活を送れるかなあと思って、福祉学科を希望しました。2004年の秋の話です。

人間福祉学科が新設されてすぐに、公募制推薦の基準を満たしていたので現在もいらっしゃる井上先生に面接して頂き、小論文も書き、目白大学に合格しました。

イ:(事前に横關さんに経歴をデータで頂いていたので)高校の経歴が凄いなとデータを頂き、感じました。

工業高校だった為、文系大学に進学する生徒も少なく情報収集は大変だった。 工業高校時代は電子機械科に在籍し、設計から製造まで自作で取り組んだソーラーカーレース活動をしており、3年次には鈴鹿サーキットでエースドライバーを務めた実績もあり。工業系の第2種電気工事士や危険物取扱者などの国家資格も複数取得した。

横關さんに頂いた経歴

横關さん:元々車が凄い好きで、電子機械分野は工場や研究所に就職するための勉強なんですね。5教科の勉強を深めるよりも工業実習という形で、授業では作業服を着て旋盤を回しながら部品を作ったり、溶接をやったりしていました。部活動で県から予算をもらってソーラーカーをやっていました。何百万という研究費を頂いて、自分たちで設計して車を作っていました。私もドライバーをやっていたのですが、私の体に合わせた車を一から作るんですよ。それを達成するにはどうすれば良いのかということで、私は身長が高い方でしたので、高いとそれだけ重いボディになってしまうので、その中でどれだけ軽量化していき、空力的に良い車を作るのか先生に教わりながら作りました。

実際にこの道を諦めたというか、鈴鹿サーキットでスタートの合図の音を聞いてスタートしたときに、「これでようやく終わったな」と思っちゃったんですよ。車を一から全部作ってスタートに立てて実際にスタートしたときに自分のゴールだったんですよ。当時、夜中にフジテレビでF1が放送されてミハエル・シューマッハ選手たちが鈴鹿で走っていました。レギュレーションが違えど、シューマッハと同じ舞台に立つことが出来たということに達成感がありました。工業大学に進学して道を深めていくという選択肢も考えました。工業系の実習ばかりやっていたのでいざ、大学入試で理系の専門的な分野を勉強して進むのが正直なところ自信が無かったんですね。高校でここまでやったということを思いつつも次の分野に進んでからとても厳しいなということは感じました。当時のプロジェクトXという番組でやっていたことです。その道4~50年の職人さんが作る部品が未だに世界で一番のシェアを持っているロケットの部品という部分を見ていて、ここまで自分がなれるのかなと自信が無かったのが正直なところでした。作った部品で0.05ミリはミスという世界で、自分がここまでは良いかなと思ったものがそこまで達していないということは感じていたので、並行して行っていたキャンプの引率などやっていたので、こちらの福祉の世界の方が自分に合っているかもしれないと工業の世界は卒業かなと考えました。ただ、仕事に役立つ資格は卒業までに取得しました。資格を取得しておけば、人生の転機が訪れたときに、仕事で使えるかなと考えました。

イ:横關さんの取得している様々な資格を拝見して、お仕事には困らなそうだなと感じました。

横關さん:電気工事士で仕事をしたという経験は無いんですが、福祉施設に勤めていて、老朽化した施設でしたので、修理などで役立ちました。修理を上司からお願いされて、1年目だったんですが(笑) その中で実際に修理をしたら自分のポジションを築けたんですね。そのときは大変だったんですが、自分が出来ることをやった結果、周りの信頼を得ることが出来ました。一つの細かい結果でもこいつがやったんだと周りに認めてもらえたということもあり、自分の強みになりました。

取得したきっかけはインフラの資格だったので、私自身が年を取っても同じ規格で動いていると考えました。プログラミング言語だと、恐らく10年後は違う言語で動いているのではないかなということは考えました。プログラミングもベーシック部分はやったんですね。実際にプログラミングを学ぶことで物事が論理的になります。情報化の社会になっていく上でやっておいて良かったなとは思いつつも、当時の資格を取得して、では10年後仕事しましょうとなったときに、通用しないと思ったので、インフラの仕事は基本的には変えられないものですので、インフラの資格取得の選択をした自分は良かったのかなと思います。エアコンの設置など、一人では出来ないことにはニーズがありますから。

茨城から目白大学まで徒歩5分に引っ越して大学生活のスタートはギャップばかり

イ:実際にその後、目白大学に入ってみていかがでしたか?

横關さん:私は茨城からの上京組みだったんですね。新宿キャンパスから徒歩5分のところに家を借りました。通学する前に何度か行ったときに、坂が無い高台の住みやすい場所を選びました。今まで住んでいた場所は歩いてコンビニまで行けない距離でしたが、行こうと思えば4路線、電車が使えましたし、自転車で池袋の西口まで10分ぐらいで行けるという便利な場所に住みました。その場所で18歳からいきなり都会生活が始まりました。油まみれで車やオートバイばかりいじっていたような生活だったので、東京生活が新鮮でした。仕送りもなかったので、アルバイトをしていました。同級生8割ぐらいは自宅から通われている感じでした。わざわざ一人暮らししている学生はクラスで3人ぐらいでした。正直、東京の学生はこんな感じなんだというギャップが入学時はありました。良くも悪くもギャップがあったので、友人関係を築くのは楽しくもあり、自分の殻を破ることもあったので、色々ありましたね。便利な生活を維持するための苦労はありましたが、自分で選択したことなので、4年間自分で頑張れました。

目白大学に入って大変だったこと

イ:目白大学に入って大変だったところをお聞かせ頂けますか?

横關さん:テンションの差ですね。学校に入ってみんなで何かをやろうという集団意識の強さ、ノリを私は持ち合わせていなかったので苦労しました。当時は、言葉だったり、着ているものだったり、自分がこれで大丈夫だというものを馬鹿にされたりもしました。同じフィールドにいないと感じることもありました、アルバイトで同じ5万円を稼いだとしても全て自分のものになる人と、生活費にしつつ少し余裕が出たら使う自分というギャップがありました。

学校自体は賑やかで、授業も賑やかでした(笑) 今までの人生で出会ってなかったおしゃれな人たちと学生時代に交流が出来て良かったと思います。

イ:ゼミは入られていかがでしたか?

横關さん:児童養護施設の実習に行ったときの実習先の施設長、目白大学の学科長だったんですね。学科長のゼミに入ることになって、当時8人ぐらいですかね。個人の希望を取って入るんですが、個性的な面々でした。飲み会しか来ないメンバーもいて、毎週集まって何やるの?という感じでした(笑) 自分が思い描いていた夏休みにゼミ合宿をして、同じテーマで話し合うことがあるのかなと思っていたんですが、全くそんな素振りもなかったです。上の一期生の人たちは仲良くやっていたり、下の子たちも一期生と同じようにやっていて、何で出来ているのかなと思って、自分がまとめる能力が無いからなのかなとそれは違うと思い、周りの人たちのことは置いておきました。4年生の夏休みが終わり、秋ごろにこのままだと卒業が出来ないとなっていたので、私の部屋に泊めて徹夜しながら、卒論を5人ほど見たりしてました。

その中で、自分以外にも色々な人がいるなという認識や、やっても報われないことがあるかもしれないと色々体験が出来ました。

イ:以前、インタビューを受けて頂いた福祉学科一期生の大石さんや後輩の方々からは横關さんは頼られていらっしゃるのではないですか?

横關さん:福祉学科の歴史が無いので、一期生の先輩たちを送る会、追い出しコンパ(追いコン)をやらないといけないものだと私は思っていたんですよ。追いコンを頑張ってやって、私のときは私ともう一人が来て、後輩たちに送り出してもらえました。後輩たちはまとまっていました。当時、学生が使えるパソコンやプリンターなどの備品はありませんでした。研究費など、予算内で購入出来るものは、20歳の時に私がやりました。環境が整わないとそもそも勉強しないと思ったので、行動しましたが、今考えると異様な学生だったでのはと思います。卒論などがやりやすいように環境整備はやりましたね。そのまま下の代の子たちにやり方を教えました。今でも下の代の子たちとは交流がありますね。歴史が無かったので、自分たちが歴史を作っていくという意識でやりました。

仕事でもインフラ整備はワーカーさんたちがなかなかやれない、知らない部分が多いので、自分がやっています。サーバーの仕組みやケーブルがどこに繋がっているのか、このランプが付いているから大丈夫だなと分かるようになっていたので、気が付くと事務担当になっていました。

インタビュー後半からは、人間福祉学科の同窓会役員だからこその卒業生のメッセージや、在学生に対してのお言葉も頂いております。下記から引き続きご覧下さい。