言語文化学科 1997年度卒 松井 直樹さんインタビュー

卒業生インタビューとして、今回は1997年に言語文化学科卒業の松井直樹さんのインタビュー記事をお伝えいたします。

現在は地域おこし協力隊に所属しながら、与論島唯一の養蜂家としてご活躍なさっている松井さんにお話をお伺いいたします。

挫折続きの中でも失わない松井さんの実直な生き方

大学に行く人がほとんどいない高校からの進学

松井さんご本人

インタビュワー(以下イ):松井さんに目白大学入学の受験のときからお聞きしていきます。よろしくお願いいたします。

松井直樹さん(以下松井さん):よろしくお願いいたします。私のいた高校ってとんでもない不良学校なんですよ。

昭和時代の絵に描いたような不良学校で。今でこそ中学が併設されて進学校になったらしいんですけど、当時は不良の集まりの学校だったんですよ。その高校から大学にいくなんてほんと珍しいことで、私を含めて学年で大学に行ったのは3人しかいない。

イ:松井さんはすごいレアケースなんですね。

松井さん:そうなんです、そうなんです。そのうちの2人は体育大に推薦でいったはずなんですよ。体育の推薦でいったので、普通に大学受験をして通ったのは学年で私だけなんですよ。

イ:高校からすれば、松井さんは目立つ存在になりませんか?

松井さん:全然、全然。目立つことはないですけど、事務室の上に「大学合格者一覧」で名前が貼られて、嫌な思いはしました。当時はね、大学に行くこと自体があの高校では珍しいことだったから。当時としては超レアだった。そのような高校だったので、「大学行きたい」って先生に言って、どこか行けそうなところを探してもらって、「お前は推薦でしか…そりゃこの高校なんだから無理だろ」って言われて。まあ当然そうですよねって。不良学校だったから学校指定の推薦なんてあるわけもなく、目白が新設でできたから、「お前、ここだったらもしかしたらチャンスあるかもよ」って言われて。それで、当時3人くらいうちの高校から受けたのかな。それで、問題とか全然わからなかったんですけど、マークシートのマークがたまたま良かったんでしょうね。なんとか合格をもらって。大学に行くことができたみたいな。

受験の日にものすごい雪が降る。お兄様が代わりに滑る!?

楽しくお話をして下さる松井さん

松井さん:目白大学受験の日が自分の誕生日だったんですよ。受験の前日の夜からものすごい東京雪降ったんですよ。朝起きたら、もう道路…当時は狭山市に住んでいたので、家の前には雪が5cm~10cmくらい積もっていました。

朝いちに兄に駅まで向かってもらう途中に車がスピンしたりして、これでなんかもう気が楽になったと思い、なんとか試験会場まで新宿キャンパスの雪が積もった坂道をのぼって、試験受けて帰ってきたっていう日だった。そんな誕生日だったのを覚えてます。

イ:代わりにお兄様がすべって下さったんですね。

松井さん:はい。そうですね。あれで気が楽になりましたね。

入学するはずの学校が無い!?

イ:目白大学は新設なので、一期生として岩槻キャンパスに通われるわけじゃないですか?

松井さん:そうです。高校の卒業式が終わって次の日に、母親と車で大学に行ってみたんですよ。で、入口の手前くらいのところくらいまでで道路ができてなくて…

その場で高校の先生に電話しましたよ。公衆電話に行って。大学できてなくて入れないんだけど、これ大丈夫かなって。

イ:大学を見に行ったら、まだ出来ていなかったんですか?

松井さん:そうそうそうそう。岩槻キャンパスのゲート入る手前の信号機までしか確か入れなかったんじゃなかったかな。あそこまで行って、「きっとあの先が大学だね」みたいな感じで終わったんですね。そのあと、近くのホットスパに行って、公衆電話から高校に電話して、先生呼んで、「高校卒業して次の日で悪いんだけど、今大学行ったんだけど、大学できてないんだけど、これ大丈夫かな」って電話したのをすごい覚えてます。

キャンパスすら入れないから、近くに公衆電話すらなくて…そんな卒業式の日だったのを覚えてます。そんな感じの大学のスタートでしたよ。

苦痛の連続、英語の授業が多い!

イ:実際に目白大学に入ってみていかがでしたか?

松井さん:大学に入ってみて、英語の授業が多すぎて…英語大っ嫌いだったんで、苦痛以外の何者でもなかったのを覚えてます。通学も苦痛でしたしね。当時車の免許持ってなかったから、電車で1時間半くらいかかってたんじゃないかな。

イ:狭山市からだと電車の乗り継ぎなど、行きづらいですもんね。

松井さん:そうなんですよ。本川越出て川越まで歩いて、川越から大宮乗って大宮で乗り換えて、岩槻行って岩槻からバスでしょ。とにかく乗り換え待ちがひどくて。1限のときなんか、狭山市を7時すぎの電車に乗らないと、もうその瞬間に遅刻が決まるとかそんな感じだったんじゃないかな。7時半がリミットだったかな。

当時、私は通勤・通学のラッシュが大嫌いでした。本川越行きまでは全然ガラガラだったけど、川越から大宮までの埼京線?川越線?あれがもう、めちゃめちゃなラッシュだったわけで。あれが嫌で嫌で、わざと時間早く行って、いつも大宮の駅のマックで朝ごはん食べる。1限のときはそのパターンでした。それだから、1限のときはわざと早く行ってたから、確か6時40分とかに家を出てたのかな。そんな生活でしたね。1年のときはたしか、月・火・金が1限だったんですよ。

イ:最初は必修多いですものね。

松井さん:そう。それでね、月・火・金は毎日その生活でしたね。とにかく嫌で嫌で。

大学時代の楽しい思い出 大学祭実行委員会入る

イ:苦痛の連続の中で、大学生活で楽しかったこと、一番印象があるのがあればお聞きしたいのですが。

松井さん:大学入ってからね…学園祭の実行委員とかやってたんで、そっちのからみで毎日大学に行ってることの方が多かったですからね。そこで山西茂学園祭実行委員長と出会ったわけだし。大学はもう、なんだろう、学園祭実行委員のために大学に行ってたようなイメージしかないですかね。されている感じが無いのはおもしろかったですね。

大学卒業後は挫折の連続だったそうで

画像はイメージです

イ:大学卒業後の松井さんについてお聞きしたいのですが。

松井さん:大学の後はね、もうね、なんだろうね、人生挫折の連続でしたね。挫折街道まっしぐらの人生で、今もそんな感じで突っ走っていますが、30歳くらいまでは西武ドームで仕事してましたね。

松井さんは西武ドーム後は国家資格試験の事務センターで勤務後、超ブラックな介護の会社に勤務なさったそうです。

松井さん:事務センターのあとは超ブラックな介護の会社に入りました、そこで速攻で人事の仕事してたんですけど、新卒採用とかね。もうほんと地獄のブラックな会社でしたよ。そこは即辞めて、その次に介護士と看護師の人材派遣の会社に入ったんですよ。派遣元責任者って形で入ったので、当時でいう月で300人くらい派遣さんを管理してる形でお仕事したんですけど、まあここもブラックでしたね。ほんとひどい毎日でしたよ。休みこそ取れてましたけど、その前の会社はほんと休みという休みは全然取れない会社だったんで、それに比べれば休みが取れるんでまだいいのかなっていうとこだったって感じですね。

現在のお仕事である沖縄の地域おこし協力隊に入った経緯

イ:介護士と看護師の人材派遣の後のお仕事をお伺いしたいのですが。

松井さん:沖縄県の高校生の新卒採用で、沖縄県内の高校全校を7月~2月にかけて年3回くらい訪問したり、沖縄県在住の介護士・看護師の方を東京で半年~1年くらい東京に出稼ぎの派遣スタッフを募集・採用をしていたこともあり、沖縄と関わることが多くなりました。自分の転職活動もしていましたが、内定をもらってもあまり納得のいくような仕事ではなく断ったりしていました。

そんな中で、1月中旬に東京駅八重洲口で『沖縄移住フェア』と『沖縄県地域おこし協力隊合同募集説明会』が開催されていました。前日に会社の新年会で二日酔い状態だったのですが、昼前に起きて、行くか行かないか迷ったのですが、会場に潜り込みました。

会場で初めて『地域おこし協力隊』という存在を知り、沖縄県庁で募集をするというのと、沖縄県庁の地域おこし協力隊は、普通の地域おこし協力隊と違って事務的なことが多いことを聞きました。

今まで埼玉と東京での暮らししかしたことのない人間が、いきなり離島暮らしは出来ないと思っていたので、沖縄県庁の仕事なら出来るのでは…?と思って、1週間後の募集締切日ギリギリに応募書類をそろえて提出し、たまたま書類選考をクリアして、たまたまオンライン面接もクリアして、合格を頂き、2019年4月1日付けで、沖縄県庁に地域おこし協力隊として着任することが出来ました。

まもなく、3年の着任期間を満了して退任します。あまりたいした活動はしていませんが、全国のどの地域おこし協力隊の隊員の中では、地域おこし協力隊の制度を一番勉強したと思っています。総務省の方、地域活性化センターの方、地域おこし協力隊のサポートデスクの方を中心に、本当にいろいろな方にお世話になりました。

地域おこし協力隊の活動を通じて、北海道から南端の波照間島、西端の与那国島まで、多くの方と知り合えたことは、3年間の活動のおかげだと思っております。

※地域おこし協力隊は総務省の制度で、三大都市圏から地方に移住をして、住民票を移して、その地域で地域に関わる仕事をして、そのまま定住していく制度のこと。

松井さん:地域おこし協力隊として沖縄県庁に来たんですけど、地域おこし協力隊って、どちらかというと地域に入っていくんですよ。「~区公民館」などに入っていくのが普通なんですけど、私の場合は全国でもかなり稀な県庁配置の地域おこし協力隊で、完全に県庁職員みたいなものでした。普通の地域おこし協力隊は地域の人たちを相手の仕事をするんですけど、私は沖縄県内の52人の地域おこし協力隊を相手に、活動内容の取材をして記事を書いてHPに載せたりとか、あとは52人のために研修会をプログラムして企画・運営したりとか、そういったことをやる形でしたね。

イ:派遣のときのお仕事のように、誰かの上に立って教えるお仕事なのですね。松井さんは、地域おこし協力隊以外でも活動なさっていらっしゃいますよね?

松井さん:地域おこし協力隊は副業OKなので、副業という形で個人事業主で養蜂をやってます。で、沖縄県町の地域おこし協力隊は週4日勤務なんですね。なので、土日とあわせて土日月とか、金土日とか、週の3日は与論で蜂蜜業ですね。

沖縄地域おこし協力隊から与論町の地域おこし協力隊へ

与論島の海

松井さん:4月1日から与論町の地域おこし協力隊になります。最大3年までなんですけど、ちょっとどうなるか詳しい話はまだしていないんで、たぶんなんですけど、私、事業協同組合っていうところに入るんですね。特定地域事業協同組合っていって、島のいろんな業者さんに派遣で人を入れて、島で働く人がいないので、雇用を派遣で支えるっていう。季節ごとに仕事はあるんだけど、年間と季節ごとにわたっていく人材派遣の事業協同組合をつくって、それを運営する立場です。地域おこし協力隊に入るんですけど、たぶんですけど、1年協力隊でやって、2年目からは協力隊じゃなくて事業協同組合を運営する側に入るんだと思います。

イ:完全に与論に定住みたいな感じですね。

松井さん:はい。流れる先は与論になりますね。

なぜ、養蜂の副業を始められたのか?については、松井さんのインタビューの後半でお伝えいたします。本記事の最下部から次の記事のリンクに進めますので、そちらもご覧ください。

引き続き、松井さんから在学生の方にメッセージを頂いておりますので、ご覧下さい。

与論でお子様を育てている松井さんだからこそ、在学生に伝えたい一言

熱くメッセージを送って下さった松井さん

イ:松井さんの方から在学生の方に向けて一言よろしくお願いいたします。

松井さん:一言語れるような大したことやってる人間じゃないんですが…地域おこし協力隊をやっているので特に思うことです。大学に地方から来ている人もいっぱいいると思います。東京で学ぶ時間ってすごい大事なのですが、それを地元に戻って活かすほうが、もっと地元にとっては重要なんだよっていうのをお伝えしたいなと思っています。

私も今与論で、子供と週末過ごしたりして、一緒にいる中で思うのが、特に与論なんかは高校まではあるんですけど、大学は当然ないんですよ。沖縄の離島でいうと、高校が無い島の方がいっぱいあるんですよ。ということは、15歳で島をでないといけない。与論だったら18歳で島を出るわけですよ。そうなったときに、島だけで生きていくと、東京とか都会を知らないと、うちの子なんかもそうなんですけど、エスカレーターに乗れない子になっちゃうんですよ。与論にエスカレーターないですから。

都会を知るというのは重要だと思うんですけど、観光に行くんじゃなくて、そこで暮らすっていう経験が必要だと思います。それを地元に戻って子供に伝えるっていうのがすごい重要なことなんですね。地元に戻って子供に伝えることが一番の地域づくりなんですよ。子供に将来というか…都会はこういうところなんだよというのを知らせるということ。それを、特に地方から来た人って地方に戻りたくないって人が多いと思うんだけど、これからの時代って東京一極集中から離れなきゃいけない時代なので、だからこそこれからの時代、そういう人が地元に戻ることが一番重要なんだよっていうのを、私は声を大にして伝えたい。

逆に、東京でずっと過ごした人が私みたいに地域おこし協力隊みたいな形を使ってもいいので、地方に来てもらって少しでも地方のために役立つ仕事をしてもらうっていう人になってもらいたい。地域おこし協力隊をやってるとすごい思います。

その経験がこれから将来の子どもたちに伝えるってすごい重要なことだっていうのを、実感しているんですよ。大学を卒業して地域おこし協力隊になって地方に入る人もいます。最近結構多く、それでもいいのですが、できれば2~3年どこかの会社とかで仕事をしたその経験…私みたいな半年で会社を辞めたことが2・3社あるなどの挫折の経験でもいいんですよ。色々な経験をした人であれば逆に…それこそ地方に出るってものすごい勇気がいるんですけど、やっぱり東京を捨てる、家族と離れる、帰りたくても帰れないという生活になる、引っ越しにお金がかかるし、大変なところは大変なんですけど、そこは勇気と決断力でなんとか吹っ切ってもらって、地方のために…自分の見つけた新天地で島のために来てもらうっていうところを頑張ってくれる人が出てくれると、個人的にはすごく嬉しいし、私もものすごいバックアップしたいと思います。

ベストなのは、地域おこし協力隊のミッションにもよるんですけど、ミッションによっては新卒で入っても全然いいよって部署もあるんですよ。でも一番多く求められるのは、2~3年ぐらい東京で仕事をしてきた経験をもった人っていうのが、一番重宝される。今からでも遅くないので、今は地方移住っていわれてる時代なので、ちょっとでも興味をお持ちでしたら一声かけていただければ、私がいろんなところを紹介します。

松井さん、ありがとうございました。在学生に対しての熱く素敵な思いをお聞かせ頂きました。少しでも松井さんの活動に興味を持たれた方は、お問い合わせフォームからお話を伺いたいなどご要望をして頂けますと、事務局がやり取りさせて頂きます。

後半に続きます。下記からご覧下さい。