地域文化学科 2000年度卒 南先鎮さん インタビュー 

卒業生インタビューとして、今回は2000年度に地域文化学科卒業の南さんのインタビュー記事をお伝えいたします。

インタビューの前半では留学生である南さんに、目白大学入学のきっかけからお伺いしていきます。インタビュー当日は、お住まいの中国から電話でインタビューにお答え頂きました。

世界に10支社を持つ経営者さんインタビュー

新聞奨学生として日本へ留学

南先鎮さんご本人 韓国の大手企業Jに勤めていて、岡崎への出張時のもの

インタビュアー(以下イ):こんにちは、南さん、本日はどうぞよろしくお願いいたします。

南先鎮さん(以下南さん):はい、こちらこそよろしくお願いいたします。

イ:では、早速目白大学の入学のきっかけをお聞かせ頂けますか?

南さん:私は韓国の大学で観光学を勉強したんですね。最初はほかの大学の観光学部行こうと思っていたんですが、外国人だと統一試験という英語や国語とか数学とかの試験があるんですね。元々、私はその試験が無いと思っていて後で調べたら試験があって、ほかの大学を調べました。目白大学に地域文化学科の専攻に観光学を勉強出来るところがあるので、目白大学に行きました。
入学してからは勉強したいことが変わり、国際関係について勉強しました。論文もアメリカ外交政策について書きました。その後、目白大学大学院の国際交流研究科に進学しました。目白大学に行ったことで、色々なことが勉強になりました。

イ:南さんは日本にいらっしゃったのは大学からなんですか?

南さん:いいえ、違います。私、元々新聞配達をすると奨学金がもらえる制度を使って来ました。【新聞奨学生とは、新聞社の奨学金制度を利用する学生で、学費の一部もしくは全額を新聞社が負担する代わりに、在学中新聞配達業務を行う。】平昌というオリンピックをやったところでバイトをしていたんですよ。先輩がいて、私は田舎者なので、当時お金も無かったので、留学は考えていませんでした。知り合った先輩が日本に行ったことで先輩から聞いて、日本に新聞奨学生として留学しました。毎日、新聞配達してました(笑) 当時、目白大学に行く留学生の競争率は高かったです。理由は学費が安く国立と同じぐらいで、当時留学生は50万円ぐらいだったんですね。目白大学の当時の学長が文科省との関係で、留学生に対しての配慮もあり、安かったんですね。

通学が2時間ぐらいでも楽しかった学校生活

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イ:学費が安く競争率が高い中で南さんは、目白大学へ入学なさったんですね。実際に目白に入ってみて、楽しかったことなど教えて頂けますか?

南さん:目白大学に入ってかなり楽しかったです。色々勉強出来るじゃないですか?人文学部、学科もいくつかあって、当時は岩槻キャンパスで今は新宿キャンパスですね。小論文とか専攻というか色々な勉強になったと思います。

イ:逆に南さんが当時大変だったことってありますか?

南さん:特にないんですね。当時、川口とか、バイト関係で神奈川の東神奈川というところがあったと思うんですが、そこに住んでいました。大学のある岩槻キャンパスって大宮の方じゃないですか?遠かったですけど、学校に行くのが楽しかったです。サボったことも無いですし。授業も楽しかったし、日本の友達も出来たし。遠いのは遠いですが、学校に行ったら友達もいるし、楽しいじゃないですか。1997年に留学してるから、日本人の同級生はみんな私より年が7~8歳下ですね。

イ:南さん、ゼミにも入られてますよね?そのときの思い出などお聞かせ頂けますか?

南さん:国際関係のゼミで政治学とか国際関係を学ぶいろいろなゼミで楽しかったです。上村教授のゼミで論文を書きました。

目白大学卒業後、大学院の国際研究科に進学、そしてオーストラリアに留学

イ:大学卒業後に大学院に進学されたきっかけなど教えて頂けますか?

南さん:先ほども少し話したことなのですが、大学でアメリカ外交政策の論文を書いたんですが、その後大学院の国際交流研究科にも勉強したくて進学しました。国連のUNWTO(世界観光機関)部署に入りたくて。日本語も出来ましたが、英語も勉強しないといけないなと思い、オーストラリアのブリスベン(Embossy language school)に10か月ぐらい語学研修に行きました。オーストラリアから日本に帰国後に大学院を卒業しようと思ったんですが、当時私の歳も30、31歳ぐらいでしたのでそのまま就職しようと思って、韓国で就職しました。当時、韓国は経済があまり良く無かったですし、歳が30、31歳で少し難しいなと思ったんですが、英語と日本語が出来るからいろいろなところからネットで話があったんですね。就職出来たので、日本に帰らなかったんですね。

留学後は韓国で大手メーカーに就職

イ:最初に入られた韓国は企業はどのような企業だったんですか?

南さん:韓国の大手メーカーに入社しました。入った部署は企画部で仕事をしていました。そこでは英語や日本語を使えれば良いなと思っていました。

イ:お話し下さった大手メーカー以外にも独立される前にどこか転職されたんですか?

南さん:はい、海外に営業することが好きだったので、のちにJという電子メーカーに転職します。J(韓国の大手企業)は日本の大手企業とも取引をしていて、売り上げも多かったです。会長から私は英語も出来るし、何年も外国語を勉強したからと言ってもらえて、中国青島にある工場や事務所に派遣されました。当時1000人ぐらい工場では働いている人がいて、仕事の関係で日本にも出張に何度も来ました。品川にあるS社(日本の大手企業)や名古屋の岡崎にも出張に行きました。日本語が出来るからということで、担当していました。資料作って、会議で30人ぐらいの前で説明をしていました。逆にSさんからも青島の工場に来てもらうこともありましたね。その後、総経理【会社の実務面のトップのこと】になり、500人ぐらいの管理をする業務になりました。総経理は基本的には20年、30年やった人がなるんですが、私は入社10年ぐらいでまだ若かったので、工場の人やみんな驚いていました。私自身も今は独立して自分の会社を持っていますが、当時、総経理になれたことは本当に嬉しかったです。総経理になったときは、母に電話しましたね。総経理って実質社長なので、お祝いでS社からもお花を頂きました。お祝いを頂けたことは嬉しかったですし、ありがたかったですが、本当に嬉しかったのは周りから認めてもらえたということです。社長を目指していた課長さんがいたんですが、途中で退職して別の会社で役職についていますが、私が総経理になったときに、羨ましいと仰っていました。その言葉もあり、大きい会社で社長にまでなるのは本当に難しいということを実感しています。私が主任になったころは、周りの別部署の役職の方はみんな5歳ぐらい年上でしたし、総経理になるのは難しいですね。会長や社長が認めて下さったことはありがたかったですね。私も総経理になれるとは本当に思わなかったです。

南さんのインタビューの前半はこちらまで。南さんの目白大学入学のきっかけから、素晴らしい経歴もお話し下さいました。インタビュー後半では、南さんは日本の〇〇〇の〇〇〇〇〇が好きというお話もして下さいました。南さんはいったい何がお好きなのでしょうか?後半は続けて下記からご覧下さい